雪なしの比叡山 ’17.1.4 曇

 比叡山坂本駅-無動寺道-無動寺-大比叡-水飲対陣跡-青谷-赤山禅院-松ヶ崎大黒天-松ヶ崎駅

 年末のブランクが大きく響き、山歩きの足が可愛そうな状態となっていました。そのようなことから、本来の歩きができるようにトレーニングがてらの低山歩きとしましょう。このところの暖かさから、比叡山はもちろん、雪のかけらもないことでしょうが、のんびり歩きに行ってきたのでした。

 それにしても、この時期ですから登山者には出会いません。林道終点に犬のゲージを積んだ軽四輪車が1台止まっています。あっ、今日は猪狩りでもしているのかな、走り回る犬に会うのかな、などと気にしながら上がれば、上からあのハンターの橙色の服装の一人が降りてきました。
 こちらから、聞きます。「今日は犬は後から降りてくるのですか?」「イヤ、今日は犬は連れてないヨ」と空気銃を担いでヒョイヒョイと降りて行かれる姿を見送りながら、こちらは「よかった、犬連れではないのだ。珍しい、犬も連れないでハンター一人歩きのようだ。それではモノにならないだろうに・・。でもお蔭でこちらは助かった!」と、気分よく山登りとするのでした。

 紀貫之のお墓標識の分岐を右に見て進めば、今度は30代くらいのお坊さんと思しき方が一人下って来られた。どうやら非番のようで、丸坊主で、でもお坊さんの装い姿でなく、一般人の服装姿であり、空身の軽快な歩きでした。挨拶だけで言葉は交わさなかったのですが、実はこのような姿は比叡山では日常茶飯事であることから、こちらは挨拶のみとする習慣がついています。なぜなら、人の生き方、成り、言葉などはいずれであろうと詮索は不要だろうとの思いで山中の道とするのでした。

 やがて、下りとなってカラスザンショウやウノハナの立つ唯一の水場である沢へ降り立ちます。この後は最後の登りとなるためのひと息をいれましょう。でも、あたりの景色は枯れ場となって見るものもなさそうです。さぁ、登りを頑張ろうと気合を入れれば、そんなに時間も歩いていないのに、獣除け柵が目に入ります。
 この小さな柵を出るとすぐに左に玉照院という道場でしょうか。寺があり入口前の小砂が敷かれた道が綺麗に掃き清められていました。あまりに綺麗すぎてその道を歩くのも気がひけました。やむなく、道外沿いを遠慮しながら砂敷き道を踏むことなく通過させてもらったのは、ここでは初めてだなと過去を振り返るのでした。足跡一つない道を見ながら、先ほど下山の方が掃かれてから降りて来られたのかなぁ・・と思ってしまうのでした。

 この先すぐで、急こう配の石段が補修完了となっていましたので、こちらから上がって無動寺明王堂へでした。さすがに千日回峰行の本拠地として知られるこの無動寺には、ちらほらとお詣りの姿がありました。しかし琵琶湖方面の眺望は雲が広がって残念でした。

 
無動寺明王堂

 さらに、急坂のコンクリート道を上がって、ケーブル駅へは向かわずに、修業小屋道をショートカットで登り上げます。尾根道の古道はほぼ真北へ上っており、15分もかからずにドライブウェイ信号手前300㍍ほどへ飛び出ますから、そこを右折して三叉路の信号地へ向かいます。

 信号で真ん中の舗装路を10㍍ほどで、大比叡への登山道に入ります。比叡山の僧侶の墓場を縫って、尾根沿いを上がればこんどは、貞観10年(868)第五代天台座主であった智証大師円珍の御廟でした。ここで手を合わせた後にひと息入れます。


智証大師円珍の御廟

 そして、山頂の1等三角点の大比叡(848m)登頂です。青年二人がすぐ下の日が差すあたりで鍋を焚いて湯煙りを立てていました。こちらの頂は木陰の中で眺望もなく、なんとも来る値打ちのない不遇の山頂でありますが、山登り者には致し方のない習性で何度でもやって来ざるを得ない空間であります。でも、これまでのこの地ではいろいろな思い出の出来事が思い出されますが、今回は記憶に残る出来事には巡り合えませんでしたがやむなく↓画像は証拠のカットです。

 そうそう、せっかく比叡山の最高点にいるのですから、ちょっとお遊びしましょう。・・では問題です。証拠のカットではなくて、『証拠の阿弥陀』という言葉で知られる比叡山のお寺さんがありますが、さて、それはどこでしょうか・・?

シンキング・タイム




 そうです。そのお寺さんの名は大原三千院のすぐ上にある「勝林院」といいます。

 この寺は近くにある来迎院とともに、天台声明の根本道場として名高いばかりでなく、こちらの寺では、浄土宗の発祥の基盤となった大原問答が執り行われたお寺さんなのです。それは文治二年(1186)に、天台宗の顕真が浄土宗の法然を招いて大原談義を行い、この時に本尊の阿弥陀さんの手から光明が放たれ、念仏の衆生済度の証拠を示したと伝えられたようです。爾来この寺は「証拠の阿弥陀」と呼ばれて永くこの言い伝えが続いているとのことであります。
 それから、この寺の宝物には、梵鐘が平安時代の作と伝わるのですが、この梵鐘が国の重要文化財として指定を受けています。大原では三千院にはどなたでも一度は入山されているとは思われますが、山登りに大原から大尾山に登られる方は、その道筋ですから是非共立ち寄っていただきたい一押しのお寺さんであります。

 さてさて、大比叡の山頂からのこの後の下山にはこの時期ですから、バスもマイカーも皆無のような寂しい延暦寺バスセンター 駐車場です。北側の横高水井山の姿もはっきりしないほどの眺望ですから、下のつつじが丘展望台には向かわずに旧スキー場跡、そして南北朝時代の南朝方の武将である千種忠顕(ちぐさただあき)が戦死した「千種忠顕碑」地へ向かいましょう。

 雲母坂に沿う山の中ほどにあり「太平記」によると千種忠顕は後醍醐天皇に勤仕し、延元元年(1336)に足利尊氏の軍勢と雲母坂の途中で戦って戦士してしまった建武中興の功臣とされ、戦没地にちなんで顕彰碑が大正時代に建てられているところです。


千種忠顕碑

 そして雲母坂を下りましょう。さて、そもそも「雲母坂」とはどうした謂れがあるのでしょうか。それは修学院から根本中道に至る山道の名前ですが、その謂われには次のような説があるようです。「江戸時代の山州名跡志によれば、比叡山に通じるこの坂道は、夕雲が覆い都から見上げると雲が生ずるようなので、雲母坂と呼ばれたという。なお、この道は延暦寺への勅使参向に用いられ、勅使坂あるいは表坂とも呼ばれた。」と京都検定本の書にあります。

 やや降れば西側に京都市街地と五山の送り火で知られる松ヶ崎東山西山の北側に宝ヶ池、そして国際会館などが指呼の間に見えるのですが、今日はそんなにはっきりとは見えませんでした。さて、この国立京都国際会館は大谷幸夫氏の設計ですが、当局のHPによれば「日本建築の伝統美を活かしつつ国際会議場としての美しい立体面を構成しているということで、完成当初から高い評価を得ています。平成10年(1998)には建設省設立50周年記念事業「公共建築百選」に選定され、平成15年(2003)には日本建築学会から、18~19世紀頃の合理主義的な思想等をベースとする美的な線や面の構成に基づく建築物の一つであるとして、「日本のモダン・ムーブメント100選に選定されました。」とあります。

 今回はこの雲母坂の道のほぼ中間にあって、延暦寺西の浄刹結界があった水飲対陣跡碑まで降り、この四差路の中で赤山禅院方向へ降りましょう。その碑が立つあたりは南北朝の時代に戦のあったところのようです。それは南朝の後醍醐天皇につく新田義貞や楠木正成方の公家であった千種忠顕の率いる軍勢と、北朝方で足利尊氏の弟である足利直義率いる軍勢が、対陣しここで戦となったことを伝える碑のようです。

 そうだ、ここで昼食としよう。のんきに遅いお昼ごはんでしたが、パラパラと5人ほどが登って行くのを見送ってやっぱり寒くなってしまい腰を上げます。そして、梅谷コースへと下ります。このコースは少し山肌を降れば、その後はずっと谷筋歩きですから、水の流れは極めて細いのですがしまいまで流れがあります。これまでからこの道の春には踏んではいないために、やっぱりキズタなど春植物達も期待感がわきます。今春の4~5月ころにも再訪問が頭に浮かびました。

 梅谷後半の左側には修学院離宮の塀が高く張り巡らされています。この離宮にも見物に入りたいと思いながら、この庭園内の見どころ等を思い描きながら歩きましょう。江戸時代後期の幕府の朝廷圧迫政策を不満とした後水尾上皇が、寛永六年(1629)に隠棲の地として広大な山荘を造営したものらしいと思い出します。今年こそ参観したいものです。

 さらに、赤山禅院にもお詣りしてみましょう。こちらは都七福神めぐりの中に入っていますから、やっぱり必見でしょう。都の東北鬼門にあたり、本堂屋根には金網の中に座るお猿さんの姿も見られました。やっぱり方除けの神として信仰を集めるのですが、なんといっても福禄寿神でお寺のHPによれば「福禄寿神は、幸福・高禄・長寿の三徳を与えられたとされています。みなさまの商売繁盛・延寿・健康・除災を祈願していただくことができます。」とあります。

     
赤山禅院の福禄寿堂    七福神の護符 

 最後には松ケ崎大黒天でした。こちらは妙円寺ともいいますが、同じく都七福神めぐりの大黒天で知られています。この大黒天は幸福を招く神として信仰されています。北山通りの五山の送り火で知られ、松ヶ崎東山に灯る妙法の法の字の真下に位置しています。
 今回は七福神めぐりは二か所だけでしたが、いずれも多くのツアーのお客様が大型バスから降りてぞろぞろ歩きをなさっていました。見ていると大勢すぎて御朱印を貰うのに競争で、解説を聞きたくてもそれもできず、いいえ、添乗員だけで解説者もいませんね。
 実はなにかに時間がかかりすぎて、係は添乗員一人だけですから、お客さんへの説明もまったくなく、来られた方はただ一人でお詣りされるだけで、お寺等の歴史的な話など何の説明もない様子でした。あ~気の毒な一行さんですね~。こんなツアーにどうして参加されるのでしょうか・・。でも、二つの寺で見ているとツアー社は異なっていたのですが、その内容的状況は変わりなかったと見受けました。・・・なんと~?(笑)

 
妙円寺のなで大黒さん

 内容はどうであれ、人混みで賑わうばかりの七福神めぐりのお客様の中を交わしながら、地下鉄松ヶ崎駅まで向かうのでした。今日もなかなかの歩きができトータル的には結構な一日となりました。

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