紅葉の湖東三山ハイク ’17.11.22

 高曇りの一日、湖東三山の紅葉を楽しんでいただいた。今年の紅葉は例年よりずっと早めで、当地の見ごろは11月12日ころだろうとの声もあったりして、心配していたのであるが遠方から初めての方々にとっては、見ごろがすぎてはいるものの、すっかりお楽しみいただけたようであった。

 百済寺といえば1400年の歴史があり、百済などからの渡来人のために聖徳太子が推古天皇時代の606年に創建された近江の最古刹である。こちらは十一面観音を本尊とし、また鎌倉時代の天台寺院とも称され、1300人が居住する巨大寺院となったのだが、寺が近江守護職佐々木頼綱の六角氏に肩を持ったために、戦国大名信長の恨みを受けて1573年に焼き討ちにあってしまい、多くの僧坊等が廃塵と化してしまったようだ。
 しかし、往時の姿は石崖参道、棚田のような坊跡遺構や信長焼き討ちにも耐えた仏陀の聖木ともいわれる千年ボダイジュをはじめ、樹齢数百年の巨スギ、ヤマザクラ、椿群から偲ぶことができる。と寺のパンフに表記されているのだ。

 まずは百済寺からスタートだが、8時過ぎに一番の入山であったために静かで多くのミツマタが沢山の冬芽をつけて春を迎える準備をしているのもお客様にとっては珍しそうで感嘆の声しきりであり、ハナノキという珍しいカエデの仲間の大紅葉にもお喜びいただいた。

 なかでも見どころは湖東平野や55K先の比叡山など近江の歴史舞台が俯瞰できる「天下遠望の名園」から始まり、はたまた仁王門では、直木賞作家の五木寛之の百寺巡礼で有名となった「百済寺の大わらじ」についても撫ぜて触れて、身体健康、無病長寿のご利益が頂ける様にと賑やかに楽しんでもらえ、重要文化財であり、唐破風付入母屋造で手の込んだ蟇股などが見どころの本堂へもお参りいただいた。

 長い歴史のなかの戦国時代にポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによる「地上の天国一千坊」と絶賛されたなどの逸話などもお聞きいただき、まさに歴史舞台と栄枯盛衰の歴史ロマンを味わっていただきながら紅葉ハイキングのスタートとなったのである。

         
 仁王門と大わらじ    重要文化財の本堂   本坊喜見院の池泉回遊鑑賞式庭園 
         
両側坊跡の中に表参道の石垣続く    表門が右に、直進し降りれば赤門    坊跡遺構へ紅葉広がり

 この後は自然歩道ハイクとなり、名神高架下から田んぼ道をのんびりと進み、車道に出るとほどなく右手の小高い丘の上に白い近代的なホテルのような建物が君臨しているように見えた。近づくと天を突くようなスマートなメタセコイアが立ち並び「クレフィール湖東」と名前が上っていた。

 さて、ここでは「生きた化石といわれるメタセコイア」について聞いていただこう。ヒノキ科メタセコイア属で、成長が早く落葉高木であり樹高は生長すれば高さ25~30m、直径1.5mと大木になる。ネット情報によれば、昭和14年(1939)に大阪市立大学教授の三木茂博士がセコイアに似た植物の化石を発見し、「メタセコイア」と命名して学会に発表した。。「メタ」とは「変化した・異なった・後の」という意味で、「メタセコイア」とは「セコイアとは似ているが、違ったもの」というような意味になり、メタセコイアは新生代第三紀層(6500万年前~200万年前) に栄えていた植物であるらしい。
 当初は化石しか発見されていなかったために、絶滅種とされていたが、1946年、中国の四川省で現存種が発見され、「生きた化石」として当時一躍有名になったものである。その後、1949年に日本と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受けて全国各地の公園、並木道や校庭などに植えられている。 また、愛媛県伊予市の市の木に指定されており、滋賀県高島市のメタセコイア並木が「日本紅葉の名所100選」に選定されている。(以上は姫路科学館HPの植物シリーズとウィキペディアを参照)

 なお、このメタセコイアは日本では古くから、持山の境界の目印となるようにこの木を植える文化が長く続いていたようで、現在でも山歩きの中で背の高いメタセコイアに出会うことは決して少なくはなく、いや、京都北山あたりではちょくちょく目にすることがあるのだ。 


 さらに進んで、少々山麓近くなれば奥には町のクリーンセンターがあるようで、清掃車が頻繁に行き交うなかから、宇曽川上流に目を向けると逆光で宇曽川ダムの堤が見られる。百済寺からここまで約4.5k歩いてきた。ここのダムは4種あるダム形式のうちの一番多いと思われる「ロックフィルダム」で1980年に運用開始された堤高56mで、6年間で63億円かかって出来たダムのようだ。日本でのロックフィルダムの中で一番高い堤高のダムは北アルプスの登山口近くの長野県大町市にある高瀬ダムで176mといわれる。
 また、日本すべてのダムの中での堤高トップは、映画化もされて観光地ともなっているアーチダム形式の黒部ダムで186mといわれ、1963年に開始されたようだ。ちなみに他の形式二種は重力式コンクリートダムと中空重力式コンクリートダムといわれるようである。

 
宇曽川ロックフィルダム

 次にトイレもある依智秦氏(えちはたうじ)の里古墳公園が待っていた。「依智秦氏」は「秦」氏の一族と考えられ、現在の愛知郡を中心とした湖東平野を本拠地として活躍した古代の渡来系氏族らしいがこちらの古墳は「依智秦氏」の墓ではないかと考えられているのだが、金剛寺野古墳群をはじめとした愛知郡内を中心に集中して分布する群集墳といわれる。
 金剛寺野古墳群、戦前には298基の古墳からなる群集墳であったことがわかっている。ただ戦後の開拓により大部分が整地されて田んぼなどに変わってしまい、現在、残っている古墳の内10基を「依智秦氏の里古墳公園」として整備して保存されているとのことだ。桜も多くあって春の桜の時期は一番華やかであることから、その時期にも自然歩道ハイキングをより楽しめることだろう。


 次に湖東三山まん中のお寺である金剛輪寺で宇曽川ダムを見物したところから約2kのハイクであった。皆さんこの寺の紅葉が一番素晴らしかったとご納得であったようだ。さて、この寺は今から約1270年前、奈良の大仏様を建立された聖武天皇と行基菩薩により天平13年(741)に開山された天台の巨殺とある。
 中でも本堂は蒙古襲来ともいわれる元寇の役の戦勝記念として、時の近江守護職佐々木頼綱によって建立されたが、鎌倉時代弘安11年(1288)の和洋建造物で大悲閣本堂として国宝に指定されたものである。その本堂内には秘仏である聖観世音菩薩像が安置されている。また重要文化財の阿弥陀如来坐像など十体のいろいろな重文指定の仏様も祀られており、見どころ満載の本堂といえるだろう。。

 ところで、その本尊の聖観世音菩薩は行基菩薩が一刀三礼拝みながら彫刀を進めると、やがて木肌から一筋の血が流れ落ちたので、行基はこの時点で観音様に魂が宿ったとして、菩薩は直ちにその彫刀を折り、粗削りのまま本尊として安置されたといわれることから、後の世に「生身の観音さま」と信心されているとのことである。
 このようなことから、あたかもその血で染めたように鮮やかに紅葉する本堂脇のもみじを「血染めの紅葉」と呼ばれるようになった、と押し寄せる参拝者に知られているが、今年の紅葉の早さで、このあたりの日当たりのよさからその血染めの紅葉は完全に終わってしまっていたのが唯一残念なことであった。

 その本堂のすぐ上には重要文化財の三重塔があり大日如来が祀られる。正しくは待龍塔というのだが、古文書によれば鎌倉時代の寛永四年(1246)4月9日の記があるが、様式的には南北朝時代の建築とみられる。明治の頃には、三重が失われ、二重から下の軸部だけが残されていたが、昭和50年から西明寺三重塔などを参考に復元する解体修理を行い、昭和53年秋に復元修理工事が完工し、現在の姿となった。塔の高さは22mといわれる。

 重要文化財の二天門にはここにも大きなわらじが下げられており、七難即滅を願うものであり、もちろんお賽銭をわらじに挟んでご利益を願うものであった。大わらじはH22年に10年ぶりの奉納で、世の中なの七つの大難がたちどころに消滅し、七つの福が生まれるのを願うものであり、縦2.5m、横80cmで重さ片方で70kと立派な仕上がりであるようだ。寺伝では、元来は楼門(2階建て門)だったが、2階部分が江戸時代中期に失われ、新たに檜皮葺の屋根を造ったものという。

 国の名勝庭園は作者不詳なれども、池泉回遊式庭園で桃山、江戸初期、中期の三庭園からなり、自然を背景としたすばらしい庭園である。時あたかも燃えるような紅葉が多くの人たちを魅了させていた。そして参道には水子供養の千体地蔵の風車が回っていたが、毎年8月9日の千日会ではそれぞれ明かりが入り見事な光景が繰り広がるようだ。そして、よだれかけは信徒の寄進によるもので年三回かけ替えるといわれる。

       
高麗門の黒門  名勝庭園   人気の庭園の紅葉 参道脇には千体地蔵
       
 見上げれば二天門と大わらじ  本堂内からの紅葉 紅葉越しに三重塔  下山時の大紅葉

 
 さぁ、自然歩道ハイクとしよう。金剛輪寺から西明寺までは約3kでゴールの歩きとなるので頑張ろう。さて、相変わらず稲刈りの終わった農道らしき道歩きで周辺の自然種の紅葉にも案内しながら進もう。皆さんに分かりやすい樹種はクロモジ、タカノツメやコシアブラにコナラあたりは馴染み深いようで声も出る。
 そして家並みが見えだして四辻あたりだろうか、ここへ「斧磨」という記念碑と看板が立っていた。もっとも看板にはローマ字で振り仮名がついているために、さて、「斧磨と書いて何んと読むのでしょうか・・?」とのクイズにはならない・・。(笑)
 要するにこのあたりの大きな集落では昔々、順番に村全体の山仕事が集落ごとに割り振られていたらしい。その時には持参の斧を研いでその村人が揃って大勢で山仕事をしたようだ。とのことで斧のことをオノではなくヨキと読ませ、刃物を砥石で研ぐことを磨くと表記し、トグではなくトギと読ませたようである。そこで「斧磨」の集落名は「ヨキトギ」と読むそうだ。

 そうこうするうちに、初めて山の中歩きとなってくれた。しかし、ほとんどが木製の階段多しで、山歩きらしいところはほんとうにちょっぴりであり、「なんだ~もう最後の西明寺到着か」という人もあったりして歩き足りなかったようだった。笑


 寺院の紅葉見物最後となった西明寺であり、自然歩道歩きのゴールは通算約9.5kの歩きとなった。それに三ケ寺境内見物合計約1.5k程度を入れて約11Kほどのトレッキングだっただろうか。さて、こちらの寺院は平安時代の承和元年(834)に三修上人が、仁明天皇の勅願により創建された寺院である。

 平安、鎌倉に室町の各時代を通じては祈願、修行道場として栄えていて山内には十七の諸堂、三百の僧坊があったといわれる。源頼朝が来寺し戦勝祈願をしたとも伝える。また、戦国時代には信長は比叡山を焼き討ちにし、その直後に西明寺も焼き討ちをしたが、国宝指定の本堂、三重塔、それに重要文化財の二天門は、どうにか火難を免れ現存しているのである。

 国宝の二つは鎌倉時代の飛騨の匠が建立した純和様建築でともに釘を使用していない。屋根は檜皮葺であり、総桧の建物である。本堂は蟇股、格子模様等が鎌倉の様式で保存され、秘仏薬師如来(重文)はじめ多くの文化財が安置され、中でも頭の上に十二支の動物の顔をのせた十二神将は参拝客に人気となっている。

 また、三重塔の初層内部の壁画は巨勢派の画家が描いたもので堂内一面に法華経の図解等純度の高い岩絵の具で極彩色で画かれていて、鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものであるといわれている。と寺の案内に表記されている。

 重要文化財の二天門は室町時代初期に建立されたもので、杮葺き(こけらぶき)の八脚門である。また、その門の直下にある夫婦杉は元々二本であった木が寄添い一つになって、共に育っていることから夫婦杉と呼ばれる。後側から子供の様に若木が出ていることから良縁、夫婦和合、子授け、安産の霊木、樹令千年の長寿の木であるので息災延命、家内安全の木とされている。 幹や根にそっと手をあてて、霊気を頂こうと皆さん真剣な願いであった。。

 名勝庭園は江戸初期の友閑の作で国指定であるが、池泉観賞式の庭園で、鶴亀の「蓬莱庭」と名付けられている。鶴や亀を形どった石組みや、本堂に祀る仏像を立石群に象徴させ、山の傾斜などを巧みに生かした調和がとれた庭園である。

 天然記念物の不断桜は秋冬春に開花し、高山性の桜で彼岸桜の系統で冬桜に属するとある。この桜は紅葉のシーズンにも咲き、境内一円に千本のもみじの紅葉と桜の開花とのコントラストが楽しめるなんとも珍しい花である。しかし、樹齢250年以上の親桜と枝分けした3本が文化財指定のために、現在のところ開花が少なくやや寂しい状況であろう。

     
西明寺の惣門  キミノセンリョウ  天然記念物の不断桜
     
 名勝庭園「蓬莱庭」 紅葉のなかの国宝、本堂と三重塔   重文の二天門と夫婦杉

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11/23比叡山の紅葉

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