比叡山の紅葉 ’17.11.23

 琵琶湖畔の宿-坂本-無動寺道-ケーブル延暦寺-大比叡-根本中道-本坂道-ケーブル坂本下P

 前日の湖東三山に引き続き比叡山の紅葉を楽しもうとの案内だった。昨夜からの生憎の雨模様を案じてはいたが、朝出かける直前に雨はあがって終日雨具は眠ったままとなり、皆さんの日ごろの行いの賜物と大きな感謝の山歩きとなった。実のところ、当初は本坂から上り、もたて山を下る予定だったのだが、もたて山へのヤセ尾根部分が21号台風の爪痕でやや危ぶまれることから、無動寺道を上りに使うよう変更余儀なくされたものであった。

 さて、琵琶湖病院上の無動寺道登山口から取りつき、林道歩きから山道へとのんびり進んで紀貫之卿墳墓従是九町の石碑で一休みしていただき、紀貫之卿について話を聞いていただこう。文学歴史的にも有名なお人のために皆さん関心度が高く、ありきたりの解説ではとやや聞きなれない部分など主体の話で纏めることとしたが、今回はその墳墓コースはとらないために機会があればとのこととした。でも、本日の皆さん教養があるのにはこちらはタジタジであった。笑

 
紀貫之卿墳墓従是九町の石碑 

 もちろん、歩きながら「この道は千日回峰行コースで、皆さんと同じ出身の釜堀浩元さんが三年がかりで地球1周分にあたる約4万Kを踏破する天台宗の荒行をなさった。」ことなど、いろいろ面白おかしく聞いてもらいながら進むのであった。もちろん、お目当ての紅葉についても、比叡山山頂あたりは紅葉は既にお終いのために、中腹一帯の見ごろな樹々を案内しながら楽しんでいただき、のんびりと山歩きを楽しんでいただいた。

          
    無動寺道唯一の展望地からの琵琶湖の眺め    
             
ウラジロノキ    落ち葉のウリハダカエデ     タカノツメ    谷のカエデの黄葉も残り

 こうして登山口より2時間で玉照院から明王堂であったが、残念ながら琵琶湖方面はすっきりとした天候とはならなかったが、これでも雨なしなら十分満足な登り道であったとの声もいただいた。それにしても昔の人たちはこれだけの坂道をよくも上がってこれたものだなぁ・・」と感慨深い声も聞こえた。
 無動寺明王堂は千日回峰の聖地ともいわれ、千日回峰の釜堀さんは戦後14人目らしいが、千日回峰の創始者(天長元年824年第1代)とされる相応和尚の1100回忌が本年2017年にあたるらしく白い幟がはためいていた。

         
千日回峰行で履かれたわらじの玉照院     明王堂も今は寂しい   ただ一輪残り花のキッコウハグマ咲き 

 そしてケーブル延暦寺駅(標高654m)で最後のひと息だが、さすがにここまでの急登に顎が上がりそうな方もあったりで、駅舎を眺めて大正ロマンを味わってもらおう。こちらの延暦寺駅は麓の坂本駅ともども文化庁の「登録有形文化財」に指定され、昭和2年開業の坂本ケーブルは全長2025mと日本一長いケーブルでその間を11分で上がってくるらしい。などと説明しよう。

     
イヌブナの残り黄葉    無動寺鳥居とケーブル延暦寺駅 

 さぁ、この後の大比叡までの標高差約200mを頑張っていただこう。ケーブルで降りる観光客がこちらの登るのを見上げてどこへ行くのだろうと怪訝な顔つきだが、こちらのメンバーはそんなのお構いなしに上を目指すばかりのようであった。そして西尊院堂まで上がれば比叡山ドライブウェーである。ここで皆さんへ「この信号を渡って向かい側からこれぞ最後の急登をやっつけよう!」と励ますのだった。

 そしてその急登が終われば「智證大師御廟」である。智證大師とは円珍の諡号(しごう)であり、延長5年(927)に第60代の醍醐天皇より贈られた第5代延暦寺座主であった比叡山の一番高貴な方のお墓なのである。ちなみに初代座主は義真(778~833年)であったが、現在の比叡山の延暦寺座主は257世森川宏映氏だといわれるそうだ。

 
 智證大師(円珍)御廟

 これで急登は終わりで後は緩やかだと励まして進めば、先週の下見時には台風被害の杉の大木が何本も横たわっていたのだが、ありがたいことにこれらの倒木がきれいにすべて細かく切られて片づけられていたのにはびっくりポンであった。
 下見時に大木の枝落としで鋸作業をしこたまやったのはなんだったのかと笑ってしまった。そしてドコモの電波塔の撤去工事中の横を通り抜けて、遂に大比叡(848m)1等三角点に全員が登頂成功となったのである。先に皆さんに山頂は展望0だからと説明済だから不平は出ない。すぐさま集合写真で寒さに参って休む間もなく下山開始となったのである。

 
大比叡(848m) 

 上がってきた分岐を左折して山内に降りるが、こちらも倒木の枝切りした箇所だったが、それらの箇所はいずれもすっかりきれいに片づけられており、作業の仕上がりからみて、これはやっぱり登山者でなく比叡山の管理の方々によるものだと納得の整地へのご苦労を感謝しながら阿弥陀堂へ降りていくのであった。

 東塔の境内へ降りると阿弥陀堂、法華総寺院、戒壇堂に大講堂などの説明を聞いてもらいながら梵鐘には長い列が続いており、やむなく諦めて地下の鶴亀そばで大休止となった。長い昼食の後にいよいよ比叡山のお目当てである根本中堂へお参りだった。
 ところが、平成二十八年度から約十年をかけての大改修工事のために、全体を覆い建物は一切目にすることは不可能であったのが、皆さんにお気の毒ではあったが、延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊に祀ったといわれ、爾来の”不滅の法灯”が1200年の時を越えて輝き続けているのを拝んでいただいた。

     
根本中堂への坂道、左大杉が折れ     工事中の根本中堂入口

 この後は自由行動としてのんびりしていただき、何人かは根本中堂の目の前の急階段を上がっていただき、文殊堂で文殊菩薩様を参拝していただいた。このお堂前の立て札にもあるように谷崎潤一郎の初期の作品である『二人の稚児』の話をし、昨日の百済寺仁王門の大わらじの前で五木寛之の「下山の思想」に続いて、ここでも一読のお奨め本ですよと笑ったのである。

 さぁ、下山の時がきた。まずは延暦寺迎賓館大書院を遠めに見て話しましょう。通常非公開だが、現在は迎賓館として使われ、古の謂れある建造物があるが、一般的には知る人は少なそうということで遠方より来る皆さんに中へこそ入れないが、ご覧いただこう。この文化財は明治時代に日本のたばこ王ともいわれた京の村井吉兵衛が住んだ東京赤坂山王台にあった邸宅を移築した純和風の建築物で、設計が東大での建築家であった武田吾一である。この建物も一度は必見の文化財でお奨めです。こんど比叡山に来られることがあれば是非見物の行程をお考えあれと話すのであった。

 もちろん、本坂を下るのだから、やっぱり法然上人得度御旧跡にも立ち寄らねばなるまい。この法然堂は元々、皇円という僧がいた功徳院のあった所で、少年時代の法然が皇円に弟子入りし、得度もこの寺で行ったといわれる。その後法然は師や住を変えたが、主に比叡山西塔の黒谷青龍寺に25年籠り、43歳時に天台宗に放決し、自らの宗派浄土宗を起したのはあまりにも有名だ。
 しかし、その後の法然は天台宗との対立が極めて激しかったことから、死後も天台宗徒に墓を荒らされるとかで、その場所も転々とするほどで、子弟僧の苦労があったといわれるのだが、長い年月後に改めてこの功徳院の地へ「法然堂」が建立されたものである。この話でも人それぞれ考えることがあるだろう。少しでも参考にした人生でありたい。

 続いてすぐ降りたところに亀堂があるので寄ってみよう。皆さんには「これが歴史散歩最後です。」と聞いていただこう。荒れ放題のお堂だが、正式には「聖尊院堂」だが、この堂のそばにある石碑の下部が亀のような姿をしているために、亀堂といわれるようになったらしい。亀の甲羅の上には立派な石碑が立ち、中には漢詩だろうか。書かれている中身には施薬院(せやくいん)全宗(ぜんそう)(1526~1600年)の業績を称える内容らしい。
 その全宗は戦国大名信長の焼き討ちのころには比叡山薬樹院の住持(今でいう住職)であったが、後に還俗して医学を学び、秀吉の侍医となった記録があるらしい。

 この後は本坂を下るのみで、自然の紅葉を楽しんでいただきながら五大堂まで降りて、そこで琵琶湖を眺めていただいた。なお、この本坂ルートの紅葉は下見時では登りだったが、その中をこちらからご覧願いたい。最後はケーブル坂本駅トイレ地経由で下のバス駐車場を下山地としたのであった。皆様、無事にお帰りでしたでしょうか。大変お疲れ様でした。

     
 上から五大堂へ石段を降りよう   五大堂境内から琵琶湖の眺めよし 

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前日の湖東三山ハイク 

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